2013年07月24日
2013年04月28日
悪天の中での小樽観光
ゴールデンウィークを迎えましたが、北海道は天気がよくないですね。
そういう天気の悪い中、小樽観光をしようと思うのなら、勉強にもなる場所を探索してみてはいかがでしょうか。
「旧日本郵船株式会社小樽支店」。
詳細は、先日アップされた『dacapo』(マガジンハウス)でご確認いただければと思います。
日露戦争後、樺太国境画定の経緯と歴史、さらには日本の伝統工芸でありながら、消え去りそうな記憶などが留められています。
(続きは「続きを読む」からどうぞ。) 続きを読む
そういう天気の悪い中、小樽観光をしようと思うのなら、勉強にもなる場所を探索してみてはいかがでしょうか。
「旧日本郵船株式会社小樽支店」。
詳細は、先日アップされた『dacapo』(マガジンハウス)でご確認いただければと思います。
日露戦争後、樺太国境画定の経緯と歴史、さらには日本の伝統工芸でありながら、消え去りそうな記憶などが留められています。
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2013年02月23日
多喜二を通じて「奴隷制度」について考える
2月20日は、小樽で育った文学者・小林多喜二の命日である。
写真は、冬は閉ざされている小樽を一望できる旭山展望台にある多喜二の文学碑。
昨今、多くの若者たちに『蟹工船』が読まれたり、戦前の労働者の解放と平和を希求したプロレタリア文学者だと紹介されることが多い。
多喜二の生涯を、史書に沿って読んでいくと、多喜二と結婚することはなかった田口瀧子という一人の女性の存在を通して、実は多喜二は単に労働者の解放だけを願ったわけではなく、もっと大きな意味での人間社会に古くから根付いていた「奴隷制度」がその時代にも息付いていたことへの批判、さらには戦後の日本国憲法第13条が規定する「すべて国民は、個人として尊重される」という我々国民が深く理解することなく享受しているかも知れない権利について希求していたのではなかろうかと、最近になって私は個人的に考えるようになった。
「奴隷制度」は、古代から存在し、最も多くの初期的形態としては戦争による勝者が敗者を奴隷として扱ってきたという史実に出会う。また、カースト制のように宗教的にも長期間にわたり社会に根付いてしまったことにより、現存しているケースもある。
旧約聖書の時代にあっても、「ノアの箱舟」のノアがカナンを呪うことが、黒人奴隷を中世において正当化する理由とされ、大航海時代に特にアフリカの黒人が奴隷売買の対象とされる形態を生み出した。実はその時代、日本人も奴隷売買の対象になっていたという史実もあり、豊臣秀吉がそのことを目の当たりにして怒り狂ったという歴史も断片的に記録されている。
なぜ多喜二の側にいた田口瀧子が「奴隷制度」と関係するのか。当時瀧子は父親の借金の形として室蘭の銘酒屋(めしや)に売られ、その後小樽の銘酒屋に転売されてきたのだ。
その時代、小樽の遊里は、南廊と北廊とがあり、いわば「赤線」はその二箇所だった。「青線」としての銘酒屋と蕎麦屋の存在は、小樽のみならず、全国にもあったのだろうが、借金の形として「売春」をさせられるという行為は、まさにそれは「奴隷」と言っても過言ではあるまい。
多喜二は、瀧子と結婚するわけでもなく、さらには性的交渉も持たず、親友から借金をして瀧子を母の住む自宅に引き取ったのだ。
フェイスブックでは、いつも明るく華やかな小樽の側面しかお伝えしていませんし、こういったいわば過去の暗闇が公然と語られることなど有り得ず、実際には、多くの先人たちの苦労を直視する機会は自ら史書等から丁寧に調べ上げるしか方法はない。
売春に限らず、「奴隷制度」に似た形態は、戦前から戦後の数年程度日本で続いてきたことは事実である。多喜二は、『蟹工船』を通じて過酷な労働環境によるいわば「奴隷制度」を批判しているように見えるが、実際のところ、日本社会に当時横たわっていたこうした制度が、なぜ滅びることなく存在し続けるのかということを、自分自身の生き方を通じて世に問いていたのではなかろうかと、私は痛切に感じる。
現代において、労働の場のみならず、「家庭」での親子の支配関係は子供への虐待につながるだろうし、「学校」でのいじめや体罰も根底はそこに通じているのではなかろうか。
そうして考えると、日本国憲法の中でも、自分自身なぜ第13条が必要であったのか真摯に考える機会が少なかったのだが、多喜二の短い人生を紐解いていく過程で、多々考えさせられることは多い。
ワイン文化史研究家としては、ノアが葡萄酒を飲んで泥酔して寝込んでしまったことに、大罪が潜んでいることを悲しまずにはいられないのであった。
写真は、冬は閉ざされている小樽を一望できる旭山展望台にある多喜二の文学碑。
昨今、多くの若者たちに『蟹工船』が読まれたり、戦前の労働者の解放と平和を希求したプロレタリア文学者だと紹介されることが多い。
多喜二の生涯を、史書に沿って読んでいくと、多喜二と結婚することはなかった田口瀧子という一人の女性の存在を通して、実は多喜二は単に労働者の解放だけを願ったわけではなく、もっと大きな意味での人間社会に古くから根付いていた「奴隷制度」がその時代にも息付いていたことへの批判、さらには戦後の日本国憲法第13条が規定する「すべて国民は、個人として尊重される」という我々国民が深く理解することなく享受しているかも知れない権利について希求していたのではなかろうかと、最近になって私は個人的に考えるようになった。
「奴隷制度」は、古代から存在し、最も多くの初期的形態としては戦争による勝者が敗者を奴隷として扱ってきたという史実に出会う。また、カースト制のように宗教的にも長期間にわたり社会に根付いてしまったことにより、現存しているケースもある。
旧約聖書の時代にあっても、「ノアの箱舟」のノアがカナンを呪うことが、黒人奴隷を中世において正当化する理由とされ、大航海時代に特にアフリカの黒人が奴隷売買の対象とされる形態を生み出した。実はその時代、日本人も奴隷売買の対象になっていたという史実もあり、豊臣秀吉がそのことを目の当たりにして怒り狂ったという歴史も断片的に記録されている。
なぜ多喜二の側にいた田口瀧子が「奴隷制度」と関係するのか。当時瀧子は父親の借金の形として室蘭の銘酒屋(めしや)に売られ、その後小樽の銘酒屋に転売されてきたのだ。
その時代、小樽の遊里は、南廊と北廊とがあり、いわば「赤線」はその二箇所だった。「青線」としての銘酒屋と蕎麦屋の存在は、小樽のみならず、全国にもあったのだろうが、借金の形として「売春」をさせられるという行為は、まさにそれは「奴隷」と言っても過言ではあるまい。
多喜二は、瀧子と結婚するわけでもなく、さらには性的交渉も持たず、親友から借金をして瀧子を母の住む自宅に引き取ったのだ。
フェイスブックでは、いつも明るく華やかな小樽の側面しかお伝えしていませんし、こういったいわば過去の暗闇が公然と語られることなど有り得ず、実際には、多くの先人たちの苦労を直視する機会は自ら史書等から丁寧に調べ上げるしか方法はない。
売春に限らず、「奴隷制度」に似た形態は、戦前から戦後の数年程度日本で続いてきたことは事実である。多喜二は、『蟹工船』を通じて過酷な労働環境によるいわば「奴隷制度」を批判しているように見えるが、実際のところ、日本社会に当時横たわっていたこうした制度が、なぜ滅びることなく存在し続けるのかということを、自分自身の生き方を通じて世に問いていたのではなかろうかと、私は痛切に感じる。
現代において、労働の場のみならず、「家庭」での親子の支配関係は子供への虐待につながるだろうし、「学校」でのいじめや体罰も根底はそこに通じているのではなかろうか。
そうして考えると、日本国憲法の中でも、自分自身なぜ第13条が必要であったのか真摯に考える機会が少なかったのだが、多喜二の短い人生を紐解いていく過程で、多々考えさせられることは多い。
ワイン文化史研究家としては、ノアが葡萄酒を飲んで泥酔して寝込んでしまったことに、大罪が潜んでいることを悲しまずにはいられないのであった。
(facebook掲載文章から)
2013年01月19日
2013年01月06日
2013年 今年もよろしくお願いいたします
皆さん、ご家族お揃いで、よいお正月をお迎えのことと存じます。
2013年も何卒よろしくお願いいたします。
翻って2012(平成24)年は、自分にとっては記憶に残る一年でもあった。
物心付いた頃から、叔母から聞かされていた母方の家系について、ルーツを調べるための「旅」に出かけることができた。
写真は、山口県・岩国で再建された「岩国城」から眺めた岩国の街と瀬戸内の島々。
また、ちょうど紅葉の見頃でもあったので、武士なるものの世が生まれた一つの象徴でもある「安芸の宮島」にも足を運んでみた。
既にそれぞれの街に暮らしている母を含めてその姉妹に、その記録を残しておきたかったので、「写真集」も作ってみた。
そんなことも昨年の思い出の一つになってしまったが、一年は早いもので、既にその6日が経過している。
今年は悔いなき時間を過ごせるよう、「一歩一歩確実に前へ進む」ことを、手段ではあるがそれを「目標」として努力を重ねていこうと考えている。
今年一年、皆さま何卒よろしくお願い申し上げます。何はともあれ、健康第一☆☆☆。。
2013年も何卒よろしくお願いいたします。
翻って2012(平成24)年は、自分にとっては記憶に残る一年でもあった。
物心付いた頃から、叔母から聞かされていた母方の家系について、ルーツを調べるための「旅」に出かけることができた。
写真は、山口県・岩国で再建された「岩国城」から眺めた岩国の街と瀬戸内の島々。
また、ちょうど紅葉の見頃でもあったので、武士なるものの世が生まれた一つの象徴でもある「安芸の宮島」にも足を運んでみた。
既にそれぞれの街に暮らしている母を含めてその姉妹に、その記録を残しておきたかったので、「写真集」も作ってみた。
そんなことも昨年の思い出の一つになってしまったが、一年は早いもので、既にその6日が経過している。
今年は悔いなき時間を過ごせるよう、「一歩一歩確実に前へ進む」ことを、手段ではあるがそれを「目標」として努力を重ねていこうと考えている。
今年一年、皆さま何卒よろしくお願い申し上げます。何はともあれ、健康第一☆☆☆。。